ウィリアム・モリスとモダンデザインの試みについて②

前回に引き続き「ウィリアム・モリスとモダンデザインの試みについて」についてお話できればと思います。

前回の記事:https://xxxaz.jp/blog/post-116/


モダンデザインの流れはW・モリスのそういった思想を色濃く継承していました。しかし、産業化が進むにつれデザインの役割は次第に移り変わり、W・モリスのデザインに込められた革命思想は時代錯誤となり忘れさられてしまうことになります。

事実、多くの方はモダンデザインという言葉からドイツのバウハウスから派生した構造主義的・機能主義的な工業デザインをイメージする方が多いと思います。また、媒体デザインにおいても経済主体の資本主義原理に飲み込まれマーケティングツールとして表面を塗り替え、差別化や流行巡回を促すだけの役割を担うに至ってしまっている場合が多いです。

しかし、産業と芸術とが融合を果たし、統一された総合芸術を生み出すことを可能にした芸術運動も存在しました。それは 十九世紀末から二十世紀初頭にかけてヨーロッパを中心に開化したアール・ヌーボーと呼ばれる一連の芸術運動です。

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(アール・ヌーボー:絵画芸術のヒエラルキーを解体する諸芸術の統合。過去の歴史的様式の折衷ではなく、新しい時代に即した造形を目指す近代的意識。芸術家の個性・感受性の重視したデザイン。モチーフを主に植物の形態に借り,曲線・曲面を用いて装飾的・図案的に表現した点に特徴がある。)

アール・ヌーボーはW・モリスの思想を色濃く残した芸術運動であり、彼の理想は、アール・ヌーボー建築家、アントニオ・ガウディによって実現したと言われています。

彼の建築物は『民衆によって民衆のため』になされた、疑いもなく『つくる人にとっての喜び』だったのです。 極めて多面的な顔を持ったアール・ヌーボーですが、それらは一点主義や華美な装飾という特徴を持っていたため、当時の装飾芸術は富裕層のための贅沢な消費財という側面を抜け出すことができませんでした。つまり、民衆による民衆のための芸術を取り戻すためのプロジェクトは、資本と消費の源流を富裕層に頼らざるを得ない製品を市場に投下してしまうことになったのです。また、消費者の生活向上を安価な大量生産によって実現させるという時流のスタンダードから逸脱した大きな矛盾をも包括していました。

そういった時代背景の中、産業化が進みデザイナーは規格化や大量生産に対応するデザインを作ることを改めて社会から求められるようになっていきました。その中で装飾用式の流れは、アール・ヌーボーからより簡易な装飾様式を持ったアー ル・デコへと表面的な移り変わりが起こりました。

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(アール・デコ:大量生産に適応させるよう簡潔さと合理性を目指したデザイン。幾何学図形をモチーフにした記号的表現や、原色による対比表現などの特徴です。)

そのことにより、産業は新たな市場を獲得するに至りました。

デザインは表面的な装飾を移り変えさせ、新たな流行を作ることによって新たな消費を市場に取り込むことを可能にしたのです。奇しくもこのことが、デザインが消費行動を促す表面的なツールとしての役割を担うに至る元凶となってしまったのかもしれません。

その後デザインはマーケティングツールとしての役割を確立させていくことになります。第一世代のアメリカデザイナーが、デザイナーという職能を社会に認知させたのは一九二〇年代末から三〇年代のことでした。

世界恐慌下にあった産業は、落ち込んだ市場を活性化させるため、新製品の開発を望んでいました。しかし、膨大な開発費用を必要とする新製品の開発が不可能であることは誰の目にも明らかでした。その結果、多くの産業の担い手は内部機構に手をつけないまま外観を変化させ、新市場に新たなイメージをもった商品を送り込むことを考えました。外観をリシェイプ(モデルチェンジ)することで、新しく市場を獲得することを求められたデザイナーたちは、自らデザインした製品を、一定期間が過ぎると、それを陳腐化させるため再び新たな外観をデザインし続けることになりました。

したがってデザイナーは自ら提案した理念的なデザインすらも市場論理の前で陳腐化させることを余儀なくされていったのです。 近年、デザインがこういった側面を打破するのは難しいように思えます。社会定説がそれを許さないのです。私は、W・モリスがデザインに込めた思想が近年の産業に必要なのではないかと感じています。つまり、中世にあって、文明化された近代社会にないもの、それは「労働の喜び」と「真の芸術」であり、それを制作する人にも、それを使用する人にも、幸福なものとして、民衆によって作り出された民衆のための芸術なのではないかということです。

W ・モリスの一連の活動は産業革命や機械文明に逆らうことによって排他的な思想となってしまいました。しかし、インターネットが発展した今日では、個人がメディアを持つ時代となりました。

私たち個人は自己表現をインターネット上で行うことで、創造の喜びをより強く身近に感じることができるようになるのではないでしょうか。そういったインフラ整備が整えられた現代において、無名の職人(労働者)によってつくられた芸術によって産業は活性化させられるのではないかということ。 そして、無名の職人(労働者)に、社会システムの未来と新たな文化の創造は握られているのではないだろうかということです。

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